閑谷学校その2
閑谷学校その2
江戸時代の前期に開かれたこの庶民のための学校は、岡山と兵庫の県境の山の中にある。今でも人里から遠く離れている場所にあり、何故、このような場所に学校が造られたのか不思議である。山の南斜面に造られているが、人里から隔離されたような場所であり、国道2号線からは、1里以上も離れている。建物は、今でも狂いが無いようであるらしいが、多くの人達の手によって造られ、350年近くも存在している。石塀についても、昨日も書いたが学校の周囲に765メートルにも及び、素晴らしい。また、ここには、中国の孔子廟にある櫂の木の種から育てた櫂の木があり、孔子にちなんで、閑谷学校では、「楷の木」を『学問の木』と呼ぶようになっている。国宝である講堂の屋根は備前焼であり、普通の黒い屋根瓦では無くて赤い。また、講堂の床は漆で仕上げられており、これまた良く光っていた。冬は寒いと思うが、夏は涼しいと感じた。
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コメント
人里から離れた静かな場所で勉学に集中出来そうですね。
歴史を感じる立派な建物、機会があれば訪れて見たいです。
2014年に修復が終わる姫路城、西はりま天文台とセットかな。
良く行く天城高原に登る途中にIBMの経営研修所があります。
標高800m、最寄の駅から車で30分以上、周囲は山だけ、人家もなし、研修しかできない場所。
でも、夜は星が綺麗だろうな。
投稿: ヨネヤン | 2010年10月26日 (火) 08時36分
閑谷学校の説明分より(池田光政がこの地に決めた説で紹介しています)抜粋
旧閑谷学校は、備前藩主池田光政が、庶民の教育を目的として寛文10年(1670)に設立した卿学である。
徳川光圀・保科正之とならんで天下の三名君のひとりにあげられた池田光政は、藩政の目標を儒学の教える仁政の実現に置き、寛永18年(1641)には、岡山花畠に儒者をつぎつぎと招き、家臣の教育のため全国にさきがけて、寛文9年には岡山藩校を城下西中山下に開設した。さらに庶民の子弟に及ぼすため、寛文8年、領内123ヵ所に手習所を設置したが、延宝3年(1675)にはそのすべてを廃止してこの閑谷の地に統合した。
寛文6年(1666)、光政は領内を巡視してこの地にいたり、「山水閑静にして読書講学」にふさわしい場所であるとし、寛文10年仮学校を開設し、この地の旧名「木谷村延原」を「閑谷」と改め、家臣津田永忠に命じて後世にまで残る学校の建築をはじめさせた。
ところで、綱政は、元禄13年、閑谷の田畑山林高279石の永代学田学林とし、万一国替などの際にも学校経営にいささかも影響をうけないようにとの保証を与えたのだった。
投稿: かめけん | 2010年10月26日 (火) 14時41分
ヨネヤンさん こんばんわ。
西はりま、姫路城、それと閑谷学校の3点セットで訪れてください。
それと、美作の温泉も!!
投稿: 遊星人M3 | 2010年10月26日 (火) 21時16分
かめけんさん こんばんわ。
解説をありがとうございました。儒教の教えを、論語で読むと面白いし、為になります。
閑谷学校で、「あいうえ論語」という本を買ってしまいました。
投稿: 遊星人M3 | 2010年10月26日 (火) 21時19分